いやぁー、控えめに言っても、朝晩がクソさぶい今日この頃…
皆々様、いかがお過ごしでしょうか。
2019年に更新が途絶えてから、もう7年ですか。
随分と長く間が空いてしまいましたねぇ。
ホントに。いろいろと、いろいろと…ね。
ありました(>_<。。。。
陳者 ずーっとね、僕はこの家を
「どう受け継いでいくか!?」
と考えて参りました。
そういう思考回路がね、
いつの間にやら習い性となっていましたよ。
でも最近は、
「どう終わらせるか!?」
と考えています。
そう思うと、家にも「お看取り」というものがあるのかもしれない。
ここでいう「家」というのは、単に住居だけのことではなくて、
善竹能舞台や蔵、御装束や御道具、型付けのされた書物、写真、
演目を描いた日本画、その他いろいろな史料までを含めたものです。
そこにはもちろん、曾祖父の初世善竹彌五郎翁から祖父の玄爺へ、玄爺から父へ、父から僕へ、そして僕から息子殿へと伝わってきた大蔵流狂言と、それを地道に支えてきた家族の暮らしもあります。
そういうものを、全部ひっくるめての「家」だと、
僕は考えていました。
「この家を次の世代へ託すこと」が、僕の「使命」だと、
信じて疑いませんでした。
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| 善竹能舞台 舞台披き(昭和40年10月24日) |
残すための器
思い起こせば…(いや、ブログを読み返すと)2010年に、僕は玄爺や父に働きかけ、「一般社団法人 高和会 善竹能舞台」を設立しました。
定款の作成やら公証役場、法務局、税務署での手続きやら何やら、
必要な手続きもぜーんぶ一人でやりましてね。
法務を全く知らぬド素人としては、随分と気張りましたわ。
当時のブログには、
「長年、私が腹案として温めていた『善竹玄三郎家の法人化』」
と書いています。
今読み返してみると、だいぶ恥ずかしいけどね(笑)
でも、その頃の自分は本気で、
何とかなる!
って、根拠もなく思ってました。
☞上手くやれるか全然わかんなかったけどね。
実は「而立」の頃、
転職なんかも考えて行政書士の資格を取ろうとしたことがありましてね。
結局、資格を取るまでは叶わなかったけど、その勉強の中で、
法律や制度というものに少し具体的に触れることができました。
そして、「相続」というものをリアルに考えるようになりました……。
いや、順序が逆かもしれない。
次の世代に「家」を余さず託すためには、具体的にどんな手段(器)が必要なのか?
そこを考えるようになった、という方が正しいかもしれない。
例えば父には二人の妹、つまり僕の叔母がいて、僕にも二人の妹がいる。
拙家の土地や建物、能舞台、御装束、御道具、保管している史料等が
個人の財である限り、代替わりのたびに遺産分割の対象になる。
何代か経てば、「家」を構成していたものが、きっとバラバラに散逸してしまうに違いない。そう考えるに至ったわけです。
では、それらを個人から切り離して、法人という器に収めてはどうか!?
まず、玄爺個人が所蔵していた御装束や御道具、その他の動産については、法人に寄付する旨の書類を書いてもらったわけです。
ただ、個々の明細まで作れるほど、当時の自分は蔵の中のすべてを知ってたわけではなかったけれど、玄爺は「それでお前たちが助かるなら」というような気持ちで快諾してくれたのだと思います。
でも、土地や家屋などの不動産はそう簡単じゃありませんでした。
実は土地と家屋、舞台も含めて祖母の名義だったから。
実際その後、相続をめぐって諍いも起きました。
拙家には公正証書遺言まであったのに、裁判にまでなりました。
それぞれにそれぞれの正義があったのだと思います。
それについて異存はない。
でも、本当に避けられないことだったのかな?
と今でも少し考えてしまう。
最終的には和解をし、一応、不動産は父の所有になりました。
でもそこで「ハイ、では、すぐそれを法人へ」とは言えませんでしたわ。
当時の自分は、
「今はその時期ではない」
「ゆくゆくは…」
と考えておりましたわ。
でも今になって思えば、それだけではないような気もする。
父は父親であると同時に、僕の師匠でもあり、「家」の権威でもあった。
父にヘタに逆らえば自 分 の 芸 の 生 命 線 を 断 た れ るのではないか?
そんな「恐怖」を、僕はずいぶん長いこと抱えてました。
でもまぁ、なんだ。
家を後世に繋ぐための仕組みだけは作ることができた。
ただ、家の中の力関係までは制度化することが叶わなかった。
それでも当時の自分はかなり楽観的らしくてね。
法人設立の翌日には、
「善竹彌五郎師の家訓として『段取り八分』という言葉が伝わっています。」
段 取 り 八 分。
そう。段取り八分…ね。
これは今も僕の考え方…いや、生き方?の大部分を占めてますけども。
必要なことを調べ、書類を揃え、先回りして穴を塞ぐとかね。
☞我ながら、昔からやっていることが少しも変わってへんやないかぁ!?(笑)
少し足して渡す
自分が「家を継ぐのだ!」ってことをリアルに考えたときに、僕は以前から何か違和感のようなものがありましてね。
受け継いだものを、ただそのまま次へ渡すだけでは、
実は確実に少しずつ目減りしていくんじゃないのか?
そこに気付いたときは、ハッと息を吞みましたわ。
玄爺から父へ、
父から僕へ。
実は、継承されているのは「芸」だけではないんです。
芸を支えてきた「家」の営みそのものが、受け渡されていく。
例えば、御装束の着付け方や役に応じた色柄の組合せ、たたみ方、
御道具の取扱い、それらの所在や保管方法、
「不許他見」とか「不許複写」と物々しく注意書きされた書物とか、
糸針の作り方など、本番当日に楽屋へ準備する物とか、
秘伝・口伝のknow-how、tipsの集積とか…。
誰が何を知っているのか?どこに何を保管しているのか?
あるいは何を参照すれば、それを蔵から探し出せるのか?
そういうことも含め、実は継承しておくべき
「大切な情報」
だったりするわけですよ。
秘伝・口伝として守るべきものはある。
でも、何でも直系の人間の頭の中だけに置いておけば、失われる。
どこまで秘して、どこまで共有するか?
その加減には自分なりに難渋しましたわ。
総体として眺めれば、僕の感覚では、受け継がれるものが、
100から70ほどになり、さらに60以下になっている。
もちろん、これは数値で測れるような話ではないけど、
実感としてそんな感じです。
蔵の中でモノを探して、
目当てのモノが探し出せずにとても苦労したこともあるし、
父には、どうやら玄爺から習っていない演目があり、
習ったものの中にも、型を十分に把握できてないものがあるようだ…。
そんなことにも、だーいぶ後になってから気付きました。
☞もっと早よ気付よ!ってハナシですわナ。
僕が大蔵流の演目一覧である「名寄」を入手したときには、
すでに稽古してもらった演目と、まだ伝授されていない演目を
リストにして、父へ渡したこともありましたっけ…。
☞そういや、あのリスト、どこへやったかな。まだどっかにあるかもしれん(笑)
未経験の演目や役柄を少しでも減らしておきたいと思ったことは、
狂言を楽しむ「徳讃会」を始めた理由の一つでした。
自分が困るから、というだけじゃなくて、何よりも
このままでは(当時生まれて間もない)息子殿が将来、確実に困る
と思ったから。
だから書物をデジタル化もしたし、
御装束や御道具はデータベースを作って整理しました。
資料もまとめて、法人を設立しました。
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| 後世のために整理した資料ファイルの一部 |
子どもへの稽古では、ただ「見て盗め」とするのではなく、
「なぜそうやるのか」
を、できるだけ具体的に伝えようとしたつもりです。
演目に出てくる実際の土地へ連れて行ったり、動画を使ったり、
実物の道具を見せ、直感的に理解できるよう努めました。
☞詳しくは過去のブログ記事を読んでね!
そういう細かな工夫は、後から勝手についてきたのだと思います。
その根底にあったのは、すごくシンプルなことですわ。
後世(跡を継ぐ者)が困らぬように。
あるいは、
僕と同じような辛い思いをしなくてもいいように。
1を受け取ったのならば、ただそれをそのまま1として、
あるいは目減りした0.8を次世代へ渡すのではなく、
少し整えて、少し継ぎ足して、
1.2とか、1.3とかぐらいにして渡したい。
そんな風なことを考えていました。
身体にしか残らないもの
芸は、資料だけでは渡せない。
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| 極重習「花子」にて実際に用いた書物 |
それを強く感じたのは、極重習「花子」の稽古の時でしたでしょうか。
父と僕では声域が違うらしい。
父は僕よりも声域が広く、特に低い音が出せる。
父の音を、そのまま漏らさず自分の身体に写し取ることに限界がありました。
そして、ある程度稽古が進んだ頃に、玄爺と父との稽古の録音を聞いたことがありました。
☞たぶん父がこっそり録ったものなのでしょう。
その時、驚くほど細かなことが分かった。
以前なら、聞いても分からなかったと思う。
書物に振られている、音程を表すゴマ符が、実に緻密で正確なことも理解できた。
自分の身体がある程度そこまで行ったからこそ、録音の中にあるもの、
そして書物に記されていたことが、初めて立体的に立ち上がり、
直感的に分かったのだと思う。
資料は、残せば終わりというものではない。
身体が育って初めて読める、理解できる資料もある。
加えて、拙家には大切にしている謡の音律や科白の調子、
それらの発声法がある。
だから、他家の御当主に師事すれば、
それですべて代替できるというものでもない。
そんなことも同時に理解できましたわ。
そして「極、重き習い」にして、
狂言方にとっては「修士論文」に例えられる「花子」を
2015年の10月に披きました…。
「三代目か四代目が家を潰す」
といった趣旨の言葉を面前で聞かされました。
その言葉は、僕の中で何かを冷やすのに十分だった。
受け取らない自由
我が子どもたちには、ほんと気の毒なくらいに!?稽古に付き合わせてたよねぇ(笑)
ブログを具に読み返すと、我ながら本当に熱心で、熱心で。
ホント感心する…。
☞ってか、引くわ!!(゜∀゜;ノ)ノ
子どもにしてみりゃ、相当に面倒くさかったんじゃなかろうか!?(笑)
息子殿もムスメも、時に号泣しながらも、よく自分に付き合ってくれたものだと思う。
とりわけ息子殿には、僕と同じ労苦を味わわせたくない、
とも思ってたからさ、分からないものを減らしておく。
必要なものを探さなくてもよいようにインデックスを作る。
習えるものは、僕の代で少しでも習っておく。
そのつもりでした。
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| 2023年7月 狂言「岡太夫」出演時。息子殿と国立能楽堂の楽屋にて。 |
でも、いつだったか…息子殿が高校生になる直前だったかな?
息子殿は泣きながら、妻に「継ぎたくない」という意志を示したそうだ。
僕には言いにくかったのかもしれない。
自分の父親が長らく心血を注いできたものについて、
「そんなモノ、いらない」
と直接言うのは、難しかったのかもしれない。
その時になって、ようやく僕は、
「託すことが最善とは限らない」
ということを悟ったのかもしれません。
もちろん、今後もう絶対に関わるな、という話ではないよ?
何十年か経って、
「やっぱ、ちょっとやってみよかな?」
と思う日が来るかもしれない。
その時、少し戻れるくらいのものは残しておきたい。
僕自身、ライフワークとして、狂言がもつ不易流行のようなものや
身体技法を、生涯かけてぼちぼち考えていくのは
決して悪くないと思っている。
ただ、
子どもたちは、僕が歩んできた「家」の道の続きを、そのまま歩む必要は全くないのだ。
今は、強くそう思う。
「家」なんか継がなくてもいい。
誰かの人生を犠牲にしなければ成り立たない継承なんぞ、捨ててしまえ!
率直にそう思う。
そして、その「誰かの人生」とやらには、
きっと僕自身の半世紀も含まれている。
ただ、もし何か一つだけ僕から受け取ってくれるなら、
「家」でも狂言でもなく、自分で考え、自分で選ぶこと。
それだけで十分なんですわ。
使命感だけでは
大阪府北部地震の後、さほど間を開けず、台風21号、24号と大きな台風が続きました。
舞台には雨漏りもし、亀裂の入った土壁から吹き込む強烈な隙間風が
パラパラと土を床に落としました。
地震の被害状況を父に話し、コンクリートブロック外壁のヒビ割れや
舞台入り口横の耐震壁の亀裂などを、
拙家出入りの業者さんと確認して回った時に、
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| 大阪府北部地震後の舞台周辺の被害状況を業者さんと共に確認 |
「どうせこの家も朽ち果てるんやから、維持しても無駄や。」
という趣旨のことを、父が言ったように記憶しています。
妻も横で聞いていたのではなかったかと思います。
その言葉を聞いて、
「この家を守ろうとしているのは誰なんやろ?」
と改めて考えましたわ。
家を維持するには、資金も要る。
時間も必要だし、人手も要る。
そして何より、「維持する」「護り継ぐ」という強固な「意志」が要る。
意志のあるところに道はあるんですわ。
その「意志」と「責任」が一致しなくなれば、
誰か一人の「使命感」だけでは、もうどうにもなりません。
そして2024年8月、僕はFacebookに、
「使命感だけでは、もはや……ね。何度も言うようですけど。」
と書きました。
その頃には、伝統芸能に限らず、医療や介護、地域活動、伝統工芸など、
いろいろな現場での「使命感」に頼りすぎている状況が目につくようになっていました。
ホントに身につまされた。
「使命感」とは、実に便利な言葉じゃないかと思う。
でもね、そんなモン、無尽蔵に湧き出てくるわけがない。
同年12月末、僕は公益社団法人能楽協会へ退社届を郵送しました。
あれが、一つの区切りでしたナ。
☞今になって思えば、その後に続くいろいろなことの、「始まり」でもあったのかもしれない。
続けないという責任
そして今、母の認知症があって、子どもたちも進学し、家族の生活様式も大きく変わりました。
妻の負担も増えました。
その妻も、
この「家」に嫁ぐ時には、御狂言を伝承していくお家なのだからと、
相当な気合いと覚悟を持って入ってきたのだという。
着物の着付けや立ち居振る舞いを身につけるために、
僕が師事していた茶の湯の師匠を紹介し、表千家の茶道にも通うようになってね。
☞その茶道は、ありがたいことに今では妻自身の楽しみとして続いている。
だから今になって、時々
「あれだけ覚悟をして嫁いできたのに、いったい何だったんだろね…。」
と、拍子抜けしたように述懐する。
それを聞くたび、
これは僕一人だけの半世紀の話でもなかったのだナ。
と思う。
そして僕自身も全方位戦略を鋭意展開中ですわ。
家を維持すること。
舞台を維持すること。
親を支えること。
子どもを育てること。
全部を「家のため」に一本化する。
…もうそんな時代じゃないんですよね。
そうならないようにするための法人化であったつもりだけれど、
残念ながらその仕組みも十分には機能しませんでした。
むしろ、「家」を維持するために家族が疲弊するのであれば、
それは僕がずっと大切にしてきた、
「後世(跡を継ぐ者)が困らぬように」
という考えとも、全く逆になってしまう。
僕は長いこと、
「受け継ぎ、後世に残すこと」
が自分の責務だと思っていました。
でも、この「家」を維持し続けないと決めたのなら、
その終わらせ方にも責任があるのではないか。
誰かが責めるかもしれない。
「玄三郎家を潰したのは徳一郎や!」
くらいは言われるかもしれない。
そう思う人がいるなら、それはそれで仕方がない。
ただ、誰かにそう思われることより、
家族をこれ以上巻き込むことの方が、
僕にはよほど怖い。
已んぬる哉。
今まで、僕は所与の条件の下で最善を尽くそうと、
常に水面下で足掻いてきました。
でももう、僕にできることと、できないことを分けようと思った。
僕が負うべき責任と、本来その立場にある人が負うべき責任とを分け、
その人の責務まで自分のものとして背負うことを止めようと思った。
「家」に人を合わせるのではなく、
人を守るために、「家」との距離を取り直す。
それもまた、一つの「看取り」なのではないか。
そんな風に考えるようになりました。
後世(跡を継ぐ者)が困らぬように。
そう考えていました。
今も同じです。
ただ、その方法が、
「残すこと」から「きちんと終わらせること」
へ変わっただけだと思います。
後世が困らぬよう、残すものの行き先を整え、
終えるものには区切りをつける。
それが、我が五十にしての「知命」やと思います。
漂えど沈まず。
「家」に囚われ続けることは、
もうそろそろやめなければならない。
このままでは、僕は溺れてしまう。沈んでしまう。
漂ってはいるけど、いつかは沈み、
守ろうとしてきたものさえも失ってしまうことだろう。
だからもう、ここで幕にしようと思うのだよ、おのおの方。
左様然らば。遠いネットの波間より贈る、
僕からのひとまずのお別れです。
アディオス。
再見。
ダスビダーニャ。