2013-09-23

昔からよく言われてきたことなのですが。

狂言をですね、現代語訳にして演じてはどうか。と、そういうご提案を頂くことがよくあります。
そうおっしゃる方々には全く悪意はなく、純粋に善意として言うておられるのですが、「狂言の垣根を下げるために、(ご自分を卑下されて)自分みたいな無学な者のために、また、時代の流れに沿って、そういう狂言に変わっていくべきではないのか。」という趣旨を述べられます。
しかしながら、我が家の理念として祖父より受け継いだものとは、狂言の持つ、時代を超えた、現代にも通底する何かを追究することです。
したがって、こういう事を試みることはしないと思います。(もっとも、差別的な表現を言い改めるということはあります。)

また、最近「伝統芸能つながり」で何かやってみては?というご提案も良く聞きます。前段にも関連することでしょうが、いわゆる「コラボ」に挑戦すれば、社会的な耳目を集め、話題作り、宣伝としては、ある種効果的なのだと思います。伝統芸能に限らず、よく試みられていることでもあります。

管見ですが、伝統芸能というのは、時間を経て取捨選択をし、その内容に改良を重ね、洗練されてきた側面があると考えています。また、狂言が狂言として、落語が落語として独自に発展した過程には、おそらく意味があるのだと思います。
わざわざ独自性をもち、発展してきた過程があるにもかかわらず、そこに「つながり」を求めることの意味が解りません。僕はそれぞれの芸能の真理を追究する方に意義を感じます。
頑なすぎるという御批判も当然にあるでしょう。しかし我が家に関しては、今後も相変わらず、安易にコラボレーションという試みは行われないでしょう。もし仮に何か変革が求められるのだとしたら、そこには必然性や確信があるものでなければと思っています。

そして。
我が家が「是」とする大蔵流狂言を提供するための場が、「狂言を楽しむ 徳讃会」ということになります。

昨日友人との雑談の折、ふと引っかかったので、大変口幅ったいことを書き記しました。
どうぞご寛恕下さい(笑)

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