12日。
お陰様をもちまして、今年も無事に「大阪薪能」@生國魂神社 を終えることが出来ました。
お客様には酷暑の中、足をお運びいただき、本当にありがとうございましたm(__)m
天気予報を見ておりますと、もう殺人的な熱暑、カラッカラであろう事は、誰が見ても分かるわけでしてね。
僕は「うへ〜」っと、どんよりした気持ちでおりました^^;
ちょうど今年は、11日の山の日も含めて4連休にしましたので、勇を鼓して?朝から狂言「飛越」の稽古を致しました。(前日に、装束は詰めていました。)
「釣狐」の時にも似た感じと思いましたけれども、実際舞台に立つと、熱が体内に籠もる感じがしたんですね。身体は熱を下げたいんだけども、外的要因で下げられない状態。伯蔵主の面がないのが、唯一の救いのような(;´д`)
☞シテ方の人はもっと大変ではないでしょうか。
鍛錬が足りないと叱られそうですけども……なんかもう本当に、型の度に妙な感じで息が切れる(/--)/
☞バイタルも上がってるんじゃないでしょうかね。
そんな感じでありました。
しかししかし!!ようやく!?僕の中では、今年の上期の、一連の流れが一段落したような気が致します。少し肩の荷が下りました。
☞別に「海人」の手を抜くわけではないですが!!
そして、今回。
60回目の開催記念と言うことで、ご鑑賞に来られた方には、記念冊子を配られたみたいなんですね。P.8の、「大阪薪能六十年の記録」のページなんですが。
第7回(昭和38年)の項。2日目(8月20日)に「茂山善三」なる人が、狂言「附子」のシテを勤めているのですが………。
これは我が祖父なる人、「茂山喜三(しげやまきぞう)」の間違いなのであります。
……そして。
楽屋内でもちょっと話題になったのですけれども。
「茂山喜三」から「善竹玄三郎」に改姓/改名したのは、いつの時点か?という話なんですけれども。
これは、実は拙家には、「善竹姓改姓の通知書」なる書面が残ってましてね。(リンク先をぜひ御参照のこと)
“昭和三十八年霜月吉日”より正式に「善竹姓」になったのと同時に、“…猶 三男 喜三儀 玄三郎と改名致させ候間…” (抜粋)とあり、この時より「善竹玄三郎」と名乗ることになった事が判るわけです。
祖父なる人、玄三郎翁の御兄弟の御名前には、ある種の法則性があるのですけども、しかしなぜ玄三郎なのか!?というのも、あるんですが……それは秘密です(爆)
☞ま、息子殿が知ってれば、それで良いです(≧∀≦)/
閑話休題。
ま、そういうわけでして、昭和38年の第7回「大阪薪能」(8月20日)の段階では、まだ正式な改姓通知を行う前でしたので、「茂山喜三(しげやまきぞう)」と表記されるわけです。☞しつこいようですが、「善三」じゃ、ないですから(笑)
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